二〇二一年一月末、三期十二年間にわたって熊本県政をともにした小野泰輔君から、本書を執筆すること、そして、その巻頭言の執筆を依頼したいとの話を受けた。
東大法学部時代の教え子からこうした依頼を受けるのは大変名誉なことであり、彼との出会いや思い出とともに、彼が熊本を発った後に起きた政治過程で学んだことを、本稿を通して伝えたい。
彼を応援する人、本書を手に取り彼のことを初めて知った人にも、この思いを伝えられれば、望外の喜びである。
小野君は、蒲島ゼミの一期生であり、彼の人生の半分以上の時間をともにしてきた間柄だ。歴代のゼミ生とは、今でこそ懐かしく振り返ることができるが、東大法学部を卒業しないで法学部の教授になるのは異例中の異例であり、その当時の私はまさに「異色の存在」であった。学生にとっても同じで、「この教授はどのような人物なんだろうか」と不審に思っていたに違いない。
そんな私は、蒲島ゼミの特徴的な取組みとして、共同研究の成果を「書籍」にすることを推奨してきた。なぜなら、「生きた証」を残すことは、その後の人生にとって重要な財産となるばかりでなく、執筆の共創の過程では多くの学びがあるからだ。
彼をはじめとする蒲島ゼミ一期生は、全三巻にわたる『新党「全記録」』(木鐸社、一九九八年)を執筆することになり、一九九二年の日本新党の結党以来、誕生や消滅、離合集散を繰り返してきた新党と日本政治をより深く理解するための歴史的資料として、後世に残すことができたのである。
同書のあとがきで彼が述べているように、この研究課題を通してゼミ生と交わした議論の数々、一般的なゼミであれば到底めぐり逢うことのなかった有数の政治家との出会いは、二十歳前後の彼と実社会の「政治」を交わらせることとなり、その後の彼の人生を大きく変え、彼自身の中でも「生きた証」として輝き続けていることだろう。
二〇〇七年十二月、私が熊本県知事選挙に立候補することを決断し、当選までの選挙活動を献身的に支えてくれた彼と熊本県政を担うため、二〇〇八年四月に「政策調整参与」として熊本の地に呼び寄せたのも必然の流れだったのではないだろうか。
二〇一二年には、当時、全国でも最年少の三十八歳で副知事の要職を任せることになり、二期八年間で、「くまモン」のロイヤリティ・フリー戦略や阿蘇の世界農業遺産登録など数多くのプロジェクトに一緒に取り組んだ。その中でも忘れられないのが、就任直後に決断した「川辺川ダム建設の白紙撤回」である。
当時、全国的に脱ダムの動きが進む中、熊本でも清流・川辺川に建設計画があった「川辺川ダム」について、地域を二分する議論が続いていた。知事選でも大きな争点になっており、他の四人の候補者がダム中止を表明する中、私は「就任後、半年で結論を出す」と表明し、選挙戦を戦ってきた。
約束の就任後半年となる二〇〇八年九月十一日、表明の直前まで彼と原稿づくりに取り組み、当時の民意はダム建設を望んでいないと判断、建設計画の白紙撤回を表明した。その後の世論調査では、県民の八十五%、流域住民の八十二・五%から支持され、一世一代の決断が民意に沿っていたことを証明してくれた。
しかし、皆様もご存じのように、「令和二年七月豪雨」で球磨川流域に未曽有の災害が発生した。私は悩み抜いた末に方針を転換し、二〇二〇(令和二)年十一月十九日に、現行の貯留型の川辺川ダム計画は完全に廃止したうえで、流域治水の一つとして、「新たな流水型ダム」を国に求める、という新たな治水の方向性を表明したのだ。
小野君が東京都知事選に立候補を表明し、熊本県庁から旅立っていったのが、二〇二〇年六月八日であり、豪雨災害が発生したのは、都知事選挙投票日一日前の七月四日である。
今回の災害対応で、彼の力を借りることができなかったのは大きな痛手であったが、苦難の歴史を重ねてきた球磨川流域の治水対策の中で、私自身が学び、彼に伝えたいことがある。それが、「転換の政治」である。
これまで彼とは、「決断の政治」「目標の政治」「対応の政治」など、政治学に基づく実践論を体現してきた。これらに加え、今回、私が「転換の政治」として学んだことは、「方針を決める」ことより「方針を転換する」ことの方が大きなハードルがあるということだ。そして、「転換の政治」では、次の三つの点を踏まえて対応する必要がある。
一つ目は、重要な決断は、半年以内で決着をつけることだ。
この考えは、リチャード・ニュースタット ハーバード大学教授の「大統領制」の講義で学んだものであり、二〇〇八年の川辺川ダム建設の白紙撤回の表明の際も、知事に就任して五カ月で決断を行った。今回の流水型ダムの決断も、この考えに沿って七月の豪雨発生から四カ月半で表明を行っている。
二つ目は、大きな判断を行う時には、まずリーダーが決断の方向性やビジョンを示したうえで住民に判断してもらうべきだということだ。
ダム建設に反対するグループやマスコミからは、住民投票や世論調査を実施したうえで判断すべきだという意見が多く寄せられた。
しかし、政治家として、自分の考えを表明することなく判断を世論調査に求めることは、本当の意味で「民意を測る」ことにはつながらないと考えている。なぜなら、住民はリーダーが示す争点を知ることなく、不完全な情報の中で判断せざるを得なくなるからだ。
三つ目は、リーダーが責任と覚悟を持って決断したことが、その後の世論調査などによって否定された場合には潔く身を引くべきであり、その覚悟を持って決断することが大事である。中曽根元首相の言葉を借りれば、政治家は「歴史法廷の被告人」であり、自らの決断の責任を生涯背負う気概が求められる。
今回の私の決断に対する評価は「中央公論(二〇二一年四月号)」で崇城大学・今井亮佑教授が詳しく分析しており、過半数の支持を受けた要因として二つのことを挙げている。一つは、ダム問題という「対立争点」を「命と環境の両立」という形で「合意争点」化したこと、もう一つは、三期十二年で県民との信頼関係が築かれていたことである。
「転換の政治」は、二〇〇八年と二〇二〇年の二度にわたって大きな決断をした私だからこそ、学べたことかもしれない。しかし、決して最初から理解していたものではなく、流域の皆様の「命と環境の両立」を成し遂げるためにはどのような決断が必要か、悩みながら、もがきながら形作られていったものである。
誰しも、一度自分が決めたことを覆し、方針を転換することは容易ではない。それが政治家であればなおさらである。自分の信じた道を突き進むあまり、単なる無知ではなく、知っていながら無視して当初の方針に固執することはあってはならず、小野君には、時に失敗を率直に認め、失敗に学ぶことができる政治家になって欲しい。その思いから、豪雨災害後に学んだ政治過程を「転換の政治」として記すこととした。
ソクラテスの言葉に、次のような一節がある。
「政治家やその志望者の中には、政治というものは非常に習得が困難であるにもかかわらず、訓練もせず、勉強もせず、突然、勝手に政治の達人になれると考えている者がいる。まことに不思議である。」
小野君は、ソクラテスの言う政治家としての訓練を私のもとで十分に受け、今まさにその道を歩み始めている。本稿に記した「転換の政治」を、私から彼への「最後の教え」として託したい。
あとは、彼の「精神の自由」のもとで信念を持って進み、さらに大きな政治家として成長していってくれることを願ってやまない。
二〇二一年二月
蒲島郁夫